◆ASPL ~正倉院復元楽器による「遊び」 (2011)  

<委嘱>公益財団法人神奈川芸術文化財団
<初演>2011年3月5日(土) 神奈川県民ホール 小ホール (14時、18時半の2回公演)
      千年の響き ―アンサンブル・ニュー・トラディション
      
      排簫:笹本武志 大篳篥:溝入由美子 竽(う):真鍋尚之 箜篌:佐々木冬彦 
      軋筝:甲斐史子 方響:神田佳子  (指揮:川島素晴)

<初演時に配布されたパンフレットの原稿>

日本では古来、音楽演奏のことを「遊び」と称していた。いつ頃から「演奏」なる語が用いられ、「遊び」と区別されるようになったのかは判らないが、例えば英語の「play」やドイツ語の「Spiel」は、今日においても、「遊び」と「演奏」の両方の意味を共有している。当時の楽器を用いる以上、そのような意味をも復刻すべきだが、それに更に、今日的な意味をも加味すべきであろう。そこで、題名は、日・独・英語それぞれの「遊び」を意味する単語から、頭の二文字(AS/SP/PL) を並べた造語とした。

各楽器は、まず、それぞれの得意技を披露する。従って、6つの楽器は、それぞれ異なる奏法で合奏を繰り広げていくが、次第に、お互いの奏法を模倣するようになる。最終的には、それぞれが全員の奏法を会得し、一斉に「遊ぶ」に至る。

江戸の禁教下で、隠れキリシタンによってグレゴリオ聖歌が独自の変質を遂げた「オラショ」には、パラレルワールドが現実のものとなったかのような興味深さがある。ここで聴く楽器たちがもしも廃れることなく存在し続けていて、且つ、「遊ぶ」が従来通りの意味を捨てずに通していたとしたら、きっとこのような合奏が行われたのではなかろうか、という、空想ゲームでもある。
(より詳しい解説はこちら↓をご覧下さい。)


<より詳しい解説>

これまでにも邦楽器のための作品を全く書かないできたわけではないが、2010年度というのは、何故か、邦楽器のための作品を書く機会が集中した。藤原道山氏のために作曲した《尺八(五孔一尺八寸管)のためのエチュード》、東京藝術大学が子ども向けに企画した演奏会のために作曲した《手振りの遊び》、そしてこの作品《ASPL ~正倉院復元楽器による「遊び」》である。(実はまだ、今年度中にもう一つ、横笛と打楽器のための作品を準備中だったりもする。)必然的に、この作品は、これら一連の邦楽器への取り組みの、集大成という位置付けとなっている。ちなみに、《手振りの遊び》は、6楽器それぞれに、6名のこどもが合図を出すと音が出る、というところから始まる作品で、合図こそないものの、冒頭部分の「6つの楽器の奏法が提示されていく」という展開は、そのまま、この作品《ASPL》に反映しているとも言える。
(更に付言すると、2008年に、本作品にもご出演頂いている真鍋尚之氏のために作曲した笙の独奏曲《手遊び十七孔》抜粋動画 からのエコーでもある。「遊び」を含んだ題名もさることながら、この作品が再演されたとある機会に、神奈川芸術文化財団芸術監督である一柳慧氏の作品も同時に上演されていて、一柳氏もその演奏会をお聴きだったことが、この委嘱のきっかけになっていたことを思えば、この作品は、真鍋氏委嘱作品《手遊び十七孔》の副産物でもある。)

日本では古来、音楽演奏のことを「遊び」と称していた。「遊び」とは、即ち「管絃の遊び」のことだったのである。楽器を奏でることは、玩具をいじるのと同義であり、合奏は、例えばスポーツやゲームを皆で楽しむのと同義だった。いつ頃から「演奏」なる語が用いられ、「遊び」と区別されるようになったのであろう。そしてそれとともに、本来「音を楽しむ」と書く「音楽」というものが受動的な「観賞」の対象となってしまった。「音遊び」という表現は、今日用いると、特殊な表現のようだが、元来、「音」は「遊び」の対象なのである。一方で、外国の言語を見渡すなら、例えば英語の「play」やドイツ語の「Spiel」は、今日においても、「遊び」と「演奏」の両方の意味を共有している。このことからも、「演奏」するということは、即ち「音で遊ぶ」ということだ、という感覚は、古来、世界共通の感覚なのであろう。

今回の作品は、正倉院復元楽器のアンサンブルのための委嘱である。当時の楽器を用いる以上、元来の「遊び」の意味に立ち返り、それを復刻するべきだ、と、まずは考えた。だが、それだけでは21世紀に作曲する意味がない。復刻した上で更に、今日的な意味をも加味すべきであろう。そこで、題名は、日本語・ドイツ語・英語、それぞれの「遊び」を意味する単語(ASOBI/SPIEL/PLAY)から、頭の二文字(AS/SP/PL) を抽出し、それらの共通文字をリンクさせつつ並べた造語「ASPL」とした。日本語では廃れてしまった「遊び」=「演奏」という意味合いを、他言語の助けを借りていにしえの感覚を復刻しつつ、21世紀の新たな「あそび」像を考える試みである。

今回用いている楽器は、排簫(はいしょう)、大篳篥(おおひちりき)、竽(う)、箜篌(くご)、軋筝(あっそう)、方響(ほうきょう)という、発音原理や構造の異なる6種類の楽器である。排簫は、18本の竹管を横に並べた、パンフルートに似たエアリード楽器。大篳篥は、現在の篳篥を大きくした、ダブルリード楽器。竽(う)は、現在の笙を倍の大きさにしたリード楽器。これら3つの管楽器は、管楽器である点は共通するが、発音原理や構造は全く異なっている。箜篌は、23~25絃をL字型の枠に斜めに張ったハープ。軋筝は、7絃の筝であはるが、つまびくのではなく擦って音を出す、つまり擦弦楽器である
(なお、このような擦弦楽器としての筝は韓国にアジェン(牙筝)という楽器があり、これについてはかつて作曲した経験がある)。方響は、鉄板を木枠に配列した打楽器で、とりわけ東南アジアではよく見られる音律打楽器だが、日本ではこのような楽器はその後なぜか、完全に廃れていた。このように、(類似するものが雅楽に用いられ今日まで継承されてきた大篳篥と竽(う)はともかくとして)ほとんどの楽器は(同じような構造の楽器に範囲を広げたとしても)、日本においては、一度は完全に廃れてしまった楽器である。従って、これらの楽器の復刻というのは、失われた歴史を蘇らせることであり、しかもそれを21世紀の現代において奏でるということは、博物学的な意味を越えたある種のロマンを伴った試みである。

各楽器は、順に登場しつつ、それぞれの得意技を披露する。(下記、「ソロ回し」の項目参照。)
次にその得意技を用いつつ、6楽器でアンサンブルを行う。ここでは、それぞれの掛け合いによる「遊び」が展開する。
続いて、お互いの模倣の練習を行う。最初に提示された6種類の奏法は、各楽器の得意技ではあったが、他の楽器でも、それに類する奏法が可能であるため、ここではそれほどストレスなく「模倣」が成立する。(下記、「模倣の練習」の項目参照。)
今度は、そうやって習得した奏法を含めた合奏となる。つまり、殆ど、2つずつの楽器が同時に奏でられるようになる。
そして更にもう一つの楽器が、それぞれの奏法を習得する。ここでは、若干、苦し紛れの模倣も含まれてしまう。しかし、これは「遊び」である。苦し紛れだろうと、それらしく聞こえれば大丈夫。(下記、「模倣の練習-2」の項目参照。)
そして3つずつの楽器によって6種類の奏法を用いた楽想を「遊ぶ」。

  ソロ回し 模倣の練習 模倣の練習-2 
排簫  隣接管横移動による音階 排簫(音階)+大篳篥 左記+方響
箜篌  任意の和弦によるアルペジョ  大篳篥(ポルタメント)+排簫 左記+軋筝
大篳篥  ポルタメントの上下行  竽(う)(合竹)+軋筝  左記+箜篌
軋筝  単音弦のトレモロ奏法  軋筝(トレモロ)+竽  左記+排簫
竽(う)  合竹(和音)による持続  箜篌(アルペジョ)+方響  左記+大篳篥
方響  広い音域に及ぶ乱れ打ち  方響(乱打)+箜篌  左記+竽(う)

3回目の模倣の練習では、遂に、全楽器が全ての奏法を習得する。但し、中には演奏困難な奏法も含まれている。もはや、模倣とは言い難い内容である。しかし、これは「遊び」である。別に、厳密に真似ができなくても、誤魔化して演奏すればいいのである。
そうやって全楽器が6種類全ての奏法を(誤魔化しもありきで)習得した状況で、6種類全ての奏法を用いた楽想をトゥッティで奏でる。一斉に「遊ぶ」に至るのである。

江戸の禁教下で、隠れキリシタンによってグレゴリオ聖歌が独自の変質を遂げた「オラショ」。普段、決して口に出さず、限定的な時期と方法(年に一度、表で騒ぐ女性たちの裏で、奥の部屋でこどもたちに口伝で継承した)によってしか伝達できなかった結果、200年を経て禁教が解かれた際には、原型から遠く逸脱し、全くオリジナルなものとなってしまった。客観的には劣化コピーの連続による変容ではあるが、それを継承し続けた歴史も、立派な一つの歴史である。片や、堂々と記述伝承を行えた西洋音楽は脈々と発展史を繰り広げ、禁教が解かれた頃には後期ロマン派にまで至っていた。これら、グレゴリオ聖歌に端を発する二つの歴史というものには、あたかも、パラレルワールドが現実のものとなったかのような興味深さがある。

ここで聴く楽器たちがもしも廃れることなく存在し続けていて、且つ、「遊ぶ」が従来通りの意味を捨てずに「演奏」の意味をも守り通していたとしたら、きっとこのような合奏が行われたのではなかろうか、という、空想ゲームでもある。

「遊び」という性質を活かすために、記譜は、全て一線譜によっている。つまり、音高は一切確定されていない。(但し、図形楽譜というわけではなく、リズムや進行は完全に確定されている。)元来、これらの楽器の楽譜を五線に記譜することは、不自然なことである。しかし一方、伝統そのものが欠落している楽器であるから、他の邦楽器のように、伝統的な記譜という概念すら存在していない。であるから、ここでは、ここだけで通用する記譜のスタイルが求められる(言うなれば、「新たな伝統」をクリエイトすることが求められる)と考えた結果である。
全くの別件ながら、これが初演される日の翌日に、全く別の作品《12人のおかしな日本人》(混声合唱曲)が初演される。2日連続で新作初演が続くという、自分の中では異例な事態となったが、これら2つの曲は、記譜という観点では興味深い対照をなしている。合唱曲の方は、全面的にシュプレヒシュティンメで演奏されるのだが、全て五線譜に厳密な音程やリズムを記譜している。あたかもしゃべっているかのような演奏をきいて、多くの人は、音程が記譜されているとは気付かないかもしれない。逆に、《ASPL》の方は、全てが音律楽器によっているので、演奏結果をきくと、五線に記譜されていないわけがない、と聴こえるであろう。聞いた印象と記譜の実際が、それぞれの曲で、真逆の結果となるのである。

なお、題名の《ASPL》ときいて、ジョン・ケージの《ASLSP》を思い出す向きもあるのではなかろうか。このオルガン曲は、楽譜に「as slow as possible」という表記がなされており、それが題名の由来にもなっている。通常演奏では20分でも上演可能ではあるが、この「できる限り遅く」という指示を拡大解釈するなら、演奏時間を何時間にも、何日にも、はたまた何年にも、設定可能となる。そのような荒唐無稽な妄想を、現実のものとしてしまったプロジェクトが、現在進行形で行われている。ドイツのハルバーシュタットの教会のオルガンで上演され続けている、「ジョン・ケージ オルガン・プロジェクト」である。2001年に演奏が開始され、639年がかりで上演することを想定して計算し、2640年まで上演され続けるのだという。これは、地球が滅びさえしなければ、たぶん、継続され続けるのだろうと思うが、7世紀後の世界がどうなっているのか、その世界に、ケージの音楽がどのように響くのか、そのようなことを夢想するだけでもロマンがある。
この作品の題名《ASPL》は、もちろん、上記の通り、3ヶ国語の「遊び」に由来するものではあるが、これを決めるにあたって、当然、ケージのこの《ASLSP》(とその639年がかりの上演プロジェクト)に、思いを馳せなかったわけではないことを付言しておこう。






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