◆ファンファーレ'88 (1988) Fanfare '88
  Wind Orchestra [Picc, 2Fl, Ob, Cl(3part), 2A.Sax, T.Sax, Bar.Sax, 3Trp, 3Hrn, 3Trbn, Enph, Tuba,
              Timp, S.D, Cym, B.D., Sus.Cym, Tam-tam, Vibraphone] 3'

 

<初演>1988年6月 桐朋中学・高等学校 中庭 (学園祭のオープニング楽曲として上演)
      菊地秀夫指揮 桐朋学園男子部吹奏楽団

<再演>2010年5月1日(土) 旧東京音楽学校奏楽堂(上野公園内)
      福田滋指揮 リベラ・ウィンド・シンフォニー 演奏会情報 演奏会リーフレットpdf

<2010年、22年ぶりの再演における、当日のパンフレット原稿(《吹奏楽のための協奏曲》(2010)と併せての解説)>

 企画者が私の作品に興味を持って下さり、私の吹奏楽作品を上演すべく作品表を確認したところ、随分と昔の作品を発掘して頂いたようで、なんと16歳のときに書いた《ファンファーレ'88》(所属していた吹奏楽部により初演した学園祭テーマ曲。1984年のジョン・ウィリアムズ《オリンピック・ファンファーレ》の影響を多分に受けている)を上演したいとのたまう。私は普段、吹奏楽界には縁遠いので、そのような若書きの作品のみを上演したのでは様々な意味で誤解を招くと思い、せめて本格的な創作活動を始めて以後の作品とのカップリングをと考えるも、近作の吹奏楽作品は所要時間が長いため断念。ならば、1997年に作曲した《10管楽器のための協奏曲》(カメラータ長野委嘱作品、松下功指揮により初演。2007年に飯森範親指揮いずみシンフォニエッタ大阪により再演)の編成を拡大し、上演時間をコンパクトにまとめた編曲版を作成しようと考えた。今回上演する《吹奏楽のための協奏曲》は、そのような経緯で用意されたものだが、結果的に編曲というよりは新作の作曲に等しい作業となった。10名による原曲は、1名で最速パッセージ、2名でそれに準じるスピード…と人数加算ごとに速度が減じ、10名による最長音価のコラールまで都合10種類の楽案が提示され切迫していくアイデアだった。これを、1、2、3、5、8、13、21、34名という、フィボナッチ数列によって増加する人数に変更し、10種類あった音型を8種類にスリムアップした(なお、それぞれに異なる打楽器を付随させた)。これら8種の楽案はいずれも演奏至難なもので、吹奏楽表現の限界を指向している。10分程度あった原曲における様々な紆余曲折や仕掛けを排除し、徐々に切迫する仕立てのみを活かしつつ、最後に全てが融合してひとつの楽案となる過程を含めて5分半に収めることで、躁状態の体感というコンセプト一本に的を絞った全く別の作品が完成した。
 《ファンファーレ'88》についてのより詳しい解説は http://www.komp.jp/023.html (注:当ページ)を、《吹奏楽のための協奏曲》については http://www.komp.jp/260.html を参照されたい。(ひとことだけ付言するなら、《ファンファーレ'88》は当時所属していた中高一貫校の吹奏楽部の構成メンバーを想定して書かれており、今回はそれを加筆訂正なく上演している。例を挙げると、やたら面倒な音換えが要求されるティンパニ・パートは作曲者自身が担当したものである。)


<《ファンファーレ '88》についての、より詳しい解説>

 私は、1984年から1990年にかけて、中高一貫の男子校「桐朋中学・高等学校」の生徒だった。あの音楽大学を擁する桐朋学園の系列だが、音楽科を持つ女子高とは異なり、男子校は音楽を専門に学ぶ環境は全くない。それどころか、どちらかというと進学校だった(当時は東大合格者ランクでトップ10入りしたりもしていた)ので、音楽の道を志すというのはマイノリティであった。だから入学当初は音楽家になろうとは夢にも思わず、確か最初の頃は勉強にも熱心だったはずで、中学一年の最初の期末試験までは成績も学年で1、2を争うものだった。ところが、である。幼少からピアノを習っていたので、中学に入ったら部活動は音楽部にしようとかねてより考えており、クラシック音楽系唯一の部活動であった吹奏学部に入部した。そしてこれが運のつき、その活動にのめりこみ、成績は下降の一途を辿っていき、そのままズブズブと音楽の道へはまりこんでしまった、というよりは、進路の選択肢は音楽以外に残されていなかった、というわけである。(ちなみに、同学年には現在クラリネット奏者として活躍している菊地秀夫君がいたが、彼は高校2年生のときに同楽団の指揮者であり、この作品を初演した。このように、吹奏学部から音楽の道に進んだ者は実は多いのだが、もちろん、この部活動と勉学を両立させた者も多い。高校2年生のとき私は副主将だったのだが、このとき主将をしていたのが原田武夫君である。なお、自分は打楽器パートを担当し、直接指導した後輩の中には、現在マリンビストとして活躍しているSINSKEもいる。)
 そういうわけで中学時代から吹奏楽部に所属しつつ、同時に独学で作曲をはじめていた私は、折りにふれ、吹奏楽や小規模なアンサンブルの編曲、作曲などを行っていたのだが、フル編成のオリジナル作品としては、この作品の前年、運動会の伴奏用に作曲した《March '87》 が最初となる。高校1年生だったが、スーザ等のマーチを何曲も次々と演奏していく中、ちょっと演奏する程度の機会だったので、先輩から文句も出ずに書かせてもらえたのである。
 翌年、高校2年生になったばかりの6月に開催された学園祭における、オープニング・ファンファーレとして作曲したのがこの《ファンファーレ '88》である。中高一貫で高校3年生は受験学年としてあらゆる行事や部活から引退するのが常である学校だった関係で、学園祭を仕切るのも高校2年生、部活動のリーダー学年も高2だったので、学園祭の実行委員から吹奏楽部にテーマ曲演奏と作曲の依頼がきたとき、必然的に自分に機会がまわってきたというわけである。(実は、もう1曲、J ポップ調の曲を小編成で作曲していた。本来はこちらの方がテーマ曲だったのだが、オープニング・ファンファーレとして作曲したこちらの方が評判は良かった。)
 1988年の初めにファンファーレを作曲しようと考えた高校生としては、まず参照したのが、1984年のロサンゼルス・オリンピックのために書かれた、ジョン・ウィリアムスの《オリンピック・ファンファーレ》である。この作品は、スタイル、和声進行その他の様々な面で、ウィリアムスの影響を受けているといえよう。ただし、短いイントロダクションに次いで主部に入ると、6/8拍子を主体としたテーマとなるが、このテーマの拍子などは、できるだけウィリアムスのファンファーレと異なるものであろうと考慮した結果選択されたものである。そのテーマを踏襲したトランペットソロによる対位旋律とともに、ゆったりとした旋律が奏でられる。次いで、テーマに基づく展開部分が続き、テーマが再現され、コーダとなる。
 なお、この楽曲の若干特殊な編成は、この当時の吹奏楽部の構成メンバーを想定していることに加え、屋外においてできるだけ立奏が可能であるよう配慮されていることによる。それらの理由の結果、バスーン、バスクラ、コントラバス等の低音楽器を欠いているが、そのためにティンパニがことのほか活躍するよう書かれている……と言うともっともらしいが、このパートを担当した自分自身が目立ちたかったという面もなきにしもあらず、いや、それが最大の理由であろう。展開部などは、面倒な音換えをおしてまでして演奏に参加するよう書かれており、今、自分の担当している作曲学生がこれを書いてきたら、確実にダメ出しする書法である。
 その他のパートの難易度もバラつきがあるが、それも、当時の構成メンバーを想定してのものである。例えば、中間部分のトランペットによる対位旋律は、1学年下に、その後桐朋音大に進学した上手な後輩が担当した。その彼とは、ヴァイオリニスト徳永二男氏のご子息で、2003年に30歳の若さで音楽事務所「1002」代表取締役社長に就任した徳永英樹君である。
 2010年5月、この作品を22年ぶりに上演する計画が出され、少々面くらいつつも、16歳のときに書いたものを、1音も加筆修正せず、そのまま上演することとした。書法上の問題よりはむしろ、上記のように、当時のメンバーやバランスを想定した書き方となっている部分をを修正しなければ、汎用性を考慮した一般的な楽譜にはならないわけだが、今回は敢えて、当時のまま再現してもらうことにしたのである。
 今見ても、まぁ、「16歳にしては」ちゃんと書いてる方かしら、とは思うので、今後、指導している学生がこれより拙い譜面を書いてきたら、せめてこの程度は書くように、という、低めのハードルにするにはちょうどいい程度かな、とも。
 いずれにせよ、再演企画者と上演して下さった皆様には感謝しておりますが、これを現在公表するということが、個人的なノスタルジーを充足するという以上の意義を認められるのかどうかはわかりません。自分としてははなはだ恐縮しております。
 (でも、今回書いた新作《吹奏楽のための協奏曲》よりも評判がいいという噂も……。)





<自筆原稿 3ページ目>

上演予定 経歴 作品表  テキスト

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