「作曲家の音」は、ひとつのコンサートを通じて、毎回ひとりの作曲家に焦点を当てて
その「音宇宙」を描き出そうという、新しいシリーズである。
2005年7月、vol.1「松平頼暁の音」により始まった。
企画者である川島が信頼を置く精鋭メンバーによって、
「これまで演奏頻度は低かったが名曲と呼ぶに相応しいもの」を中心に上演し
スタンダードとして示すことで、21世紀における新たな作曲家像の提示を意図している。

vol.2
「ヴェーベルンの音」 


2回は敢えて時代を遡行し、今年没後60年を迎えるヴェーベルンを特集する。
生ぬるい音に慣らされた我々の耳に、今なお新たな発見をもたらし続ける
ヴェーベルンの音楽。今回は、ヴェーベルン研究の第一人者である
岡部真一郎氏をゲストにお招きしてお話を伺いながら、
上演機会の少ない室内歌曲作品を中心に、最初期から最晩年までのクロノロジーを追う。

・チェロとピアノの小品(1899)
・歌曲「発見」(1904)
・歌曲「岸辺にて」(1908)
・「第7の輪」による5つの歌曲op.3 (1908-09)

・弦楽四重奏と歌のための3つの小品(1913/日本初演)
・チェロとピアノのための3つの小品op.11 (1914)
・チェロソナタ(1914)
・トラークルによる6つの歌曲op.14 [sop, cl, bass cl, vn, vc] (1917-21)
・5つのカノンop.16 [sop, cl, bass cl] (1923-24)

・3つの伝承詩op.17 [sop, cl, bass cl, vn, vla] (1924-25)
・弦楽三重奏断章 (1925)
・弦楽三重奏曲op.20 (1926-27)

・「道なき道」による3つの歌曲op.23 (1933-34)
・ピアノのための変奏曲op.27 (1935-36) 
・弦楽四重奏曲op.28 (1936-38)

特別ゲスト:岡部真一郎(お話) 
sop太田真紀 pf:前垣内美帆 企画・指揮:川島素晴
Ensemble Bois (vn:竹内弦、川上裕司 vla:吉田篤 
         
vc:多井智紀 cl:田渕恵実 bscl:中秀仁)


2005年11月24日(木) 19時開演(18時半開場) 北とぴあ・つつじホール
入場料:2000円(全自由席)



<演奏会当日配布した解説文>
文責:川島素晴 (参考文献:岡部真一郎著『ヴェーベルン−西洋音楽史のプリズム』)

◆チェロとピアノのための2つの小品より、第2曲へ長調 (1899)        vc:多井智紀 pf:前垣内美帆
 1883123日、ヴィーンに生まれたヴェーベルンは、5歳の頃から母からピアノを教わり、1894年にクラーゲンフルトに移ってから本格的な音楽教育が始まった。コーマウアーにピアノ、チェロ、音楽理論を師事、14歳の頃には地元のオーケストラにチェロ奏者として参加。15歳のときに作曲された現存する最初期の作品である、この『2つの小品』は、そうしたヴェーベルン少年の経験を反映したものと言える。今回上演する第2曲は、「へ長調」でありながら、冒頭、すぐに転調し、最後まで「へ長調」に回帰しない。早くも後期ロマン派の和声を探っている様子が窺える。

◆アヴェナリウスの詩による3つの歌曲より、第1曲『発見』(1904)      sop:太田真紀 pf:前垣内美帆
 1902年からヴィーン大学にて音楽学をアードラーに師事。その後シェーンベルク門下となって本格的な作曲の研鑽を積む以前の作品として最後の集大成となったのが、後期ロマン派の手法を駆使した管弦楽作品『夏風のなかで』である。この『発見』は、同時期に多数作曲された歌曲のうちの1曲。愛を盛大に謳歌する歌詞に、濃厚なロマンティシズムを湛えた付曲がなされている。

◆リヒャルト・デーメルの詩による5つの歌曲より、第2曲「岸辺にて」(1908) sop:太田真紀 pf:前垣内美帆
 1904年の秋からシェーンベルクの門下となったヴェーベルンは、その後、この師匠の歩む道、即ち、調性の拡張〜無調性〜12音技法・・・を、自らもほぼ同時期になぞることになる。1906年に大学を離れ、指揮活動なども始めつつ、1908年には、シェーンベルク門下としての「卒業作品」である作品1の番号が付された『パッサカリア』を発表。作曲家としての本格的な活動を始めることとなる。この『岸辺にて』は、同時期の作品中でも最も調性の枠組み限界に挑んだ作品である。後に繊細な弱音と、浮遊するリズム感を探求することとなるヴェーベルンの、先駆的な作品と言える。
 <詩の大意>(海辺で日没を詠んだ詩。)
          世界は沈黙し、血は響く。明るい深淵への日没。高い大地を抱く輝き、

          海の遥かな戦いは震えない。水面からの星と、永遠の光を飲み込む魂は、ためらわない。

◆シュテファン・ゲオルゲの「第7の輪」による5つの歌曲op.3 (1908-09)   sop:太田真紀 pf:前垣内美帆
 シェーンベルクが無調表現を開拓するに当たって重要な存在となったシュテファン・ゲオルゲの詩。ヴェーベルンも同様に、ゲオルゲの詩によって、無調表現を探求した。事実、このop.35曲に加えて、op.45曲、及び同時期に書かれた4曲と、計14曲もの歌曲を、1908年から09年にかけて作曲している。その意味でも、シェーンベルクのゲオルゲによる歌曲集『架空庭園の書』と比較できる。このop.3は、5曲とも1分程度の中で非常に緻密な構造を示しており、その意味ではこの直後、『弦楽四重奏のための5つの楽章』で到達する「極小様式」の萌芽を見て取れる。
 I  Dies ist ein Lied     <大意>これはあなただけのための空想と涙の歌。飛んで朝の庭に響く、心に触れる歌。
 II  Im windesweben    <大意>そよぐ風の中での問いは白昼夢。あなたがくれた微笑。輝く雨の夜、5月は、
                     あなたの目と髪にあこがれる私を圧迫する。
 III  An baches ranft    <大意>川辺には早咲きのハシバミのみ。空寒い草地に鳥は歌う。
                     一筋の光が優しく暖め、春は目覚めに花を咲かせるでしょう。
 IV  Im morgentaun    <大意>朝露に、桜や草の香りを吸いに出る。塵は遠くへ・・・。
                     大地にはまだ果物も緑もなく、南から微風吹く、私たちの周りのみが花開く。
 V  Kahl reckt der Baum <大意>むき出しの木々は、その凍える生を、冬の靄まで広げる。
                     その前に静かな旅を夢見よう。氷の中で、手を広げて春を待ち望む!

◆弦楽四重奏と歌のための3つの小品(1913/日本初演)
                        sop:太田真紀 vn:竹内弦、川上裕司 vla:吉田篤 vc:多井智紀
 無調時代のヴェーベルンの創作の中で、高いオリジナリティを認定できる要素であるのが「極小様式」という楽曲構成である。前述のゲオルゲ歌曲の後、器楽曲へと創作の中心を移しつつ、それまでの器楽作品にはあり得なかった短さの中で全てを言い尽くそうという、この独特な様式に至る。とりわけ『弦楽四重奏のための6つのバガテル』(1913)は有名且つ代表的な作品であり、シェーンベルクをして「一つの身振りで一篇の小説をも表す」と言わしめた。さて、この『バガテル』、実はその成立にはいわくがある。まず、1911年に、全6曲のうちの第2曲から第5曲までの4曲のみができていた。その後、1913年に、今回上演する『3つの小品』が完成。この作品は、第2曲に自作の詩による歌が付くという、変わったアイデアによるものであった。変わった、と言っても、これは明らかにシェーンベルクの第2弦楽四重奏曲(後半の楽章に歌が付く)の影響である。更に、この歌のパートには、シュプレヒシュティンメ(シェーンベルクが開発した、語りと歌の中間の声楽技法)の指示など、様々な歌唱技術の書き込みがなされており、その意味でもシェーンベルクの影響が色濃い。しかしこの歌の付いた楽章は、生前には公表されることなく、前後の2つの楽章が、1911年に既に書かれていた4曲の前後に配置され、それが現行の『6つのバガテル』となったのである。撤回した理由としては、その詩の内容が、母の死に寄せたものであることから、直接的な表現を避ける意図があったとされる。これによって、出版作品としてはヴェーベルンの「シュプレヒシュティンメ」を一切聴くことができなくなったわけだが、そういう意味でも、この作品の上演は、極めて興味深いものとも言える。(なお、岡部氏によれば、同時期のオーケストラ伴奏付歌曲のスケッチや断片などにも、シュプレヒシュティンメの指示はあるようだ。しかし、一応の完成をみた作品として、今日上演可能なものとしては、この作品のみということになる。)近年、ブーレーズによるヴェーベルン新全集にはこのヴァージョンでの録音が収録されたり、他にも録音が出たりもしており、日本でも上演の機会が待たれていた。今回が日本初演となる。
<第2曲の詩の大意>悲しみはいつも天国の露を見上げる。母の記憶が胸に、黒い花を咲かせる。

◆チェロとピアノのための3つの小品op.11 (1914) ◆チェロソナタ (1914)  vc:多井智紀 pf:前垣内美帆
 ヴェーベルンは、「極小様式」によって著しい独自性を示し得た一方で、シェーンベルクからは「大規模な作品」を書くよう示唆されていた。その頃、チェロを好んだ父親へのプレゼントとして、既に短い小品をひとつ書いてはいたが、一念発起してより大規模な『チェロソナタ』の作曲を構想した。しかし2楽章の構想であったソナタの第1楽章を書いた時点で、やはりそのような作品が自分の資質とそぐわないと判断したヴェーベルンは、既に書いていた短い小品に、更に2曲を加えて、『3つの小品』として、父親に贈った。決して棄てるような内容とは言えない、『チェロソナタ』の遺された1つの楽章。今回敢えて上演するのも、コンサートピースとしては遜色ない出来栄えと思えるからである。しかし、『3つの小品』と並べて聴いてみると、やはり、音数で言えば何十分の一かと言えるような『3つの小品』こそが、ヴェーベルンの真のオリジナリティを具えたものであることが判然とする。しかしながら、この葛藤劇は、ヴェーベルンをして、新たな局面へと向かわせる原動力となったことも事実であり、この『3つの小品』を最後に、いわゆる器楽作品としての「極小様式」を卒業することとなる。

◆ゲオルク・トラークルの詩による6つの歌曲op.14 (1917-21)
         sop:太田真紀 vn:川上裕司 vc:多井智紀 cl:田渕恵実 bscl:中秀仁 指揮:川島素晴
 op.12op19、即ち、1915年から1926年までの時期、ヴェーベルンは、その創作の全てを歌曲に充てた。しかもそのうちop.14op.18については、全て、独特な編成による室内歌曲となっている。しかしながらこれらの歌曲は、上演が困難であることから、普段なかなか実演に接することはできない。今回の演奏会では、これらのうち3曲をまとめて上演する。まず言及すべきことは、この「室内歌曲」というジャンルが、いわずもがな、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』(声、フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノという編成)の影響なくしては語れないということである。とりわけ、この『トラークルによる6つの歌曲』については、編成の類似性、音楽的内容ともに、「ピエロコンプレックス」とすら言えるような親近性が認められよう。しかし、ここでヴェーベルンは、慎重に「シュプレヒシュティンメ」のような歌唱法ではなく、ソプラノの通常の歌唱に限定して、純然たる「歌曲」としてこれらを作曲することで、エピゴーネンに陥る愚を犯さずに済んでいる。この選択は、特殊奏法や複雑さを削ぎ落としていく晩年への軌跡を考えても重要であり、また、このことは、次作op.155つの宗教歌』(1917-22)以後、テクストが宗教的内容を帯びていくこととも関係する。今回上演する3曲の、一見「似通った」音楽の中に、彼の変遷を明確に見て取ることができるはずである。(例えば、これら全てがクラリネットとバスクラリネットという2つの楽器を含んでいることは、これらの楽曲の音響上の類似性を示すと同時に、様式上の相違点も明確にする。)
 トラークルは、ピストル自殺を図って未遂に終わり、精神病棟に監禁される中、1914年にコカインの大量服用によって27歳の生涯を終えたという、壮絶で短い人生を送った詩人で、詩の内容も独特な色彩的イマジネーションに満ちたものとなっている。ヴェーベルンはこの同時代の詩人の凄絶な死に、何を思ったのであろうか。
(*以下、翻訳全文を掲載していましたが、ここでは割愛します。)。

 I  Die Sonne                 太陽 (1921          [sop, cl, vn, vc]
 II  Abendland I               黄昏の地I 1919       [sop, bass cl, vn, vc]
 III  Abendland II               黄昏の地II 1919      [sop, cl, vn, vc]
 IV  Abendland III              黄昏の地III 1917      [sop, cl, bass cl, vc]
 V  Nachts                  夜に (1919          [sop, cl, bass cl, vn]
 VI Gesang einer gefangenen Amsel  囚われのつぐみの歌 (1919[sop, cl, bass cl, vn, vc]

◆ラテン語の歌詞による5つのカノンop.16 (1923-24)      sop:太田真紀 cl:田渕恵実 bscl:中秀仁
 まずここでは、作曲のコンセプトを、全て「カノン」で統一している、という意味で、前作『トラークル歌曲』との相違は明確である。もちろん、これまでにも対位法的な手法は多数含まれていたが、一つの歌曲を全て「カノン」技法で統一するというアイデアは、これまでの創作からは一線を画している。しばしば指摘されることに、シェーンベルクやヴェーベルンが12音技法に至る道程の中で、対位法時代の技法を参照することが、和声的な音楽からの脱却を導き、反行や逆行といった音列技法の礎ともなった、ということがある。その傍証例として、格好の作品と言えよう。また、ここではテキストは宗教的な内容のものに限定され、『トラークル歌曲』のときのように、詩の意味に従って楽曲を構成するようなスタンスから、音の構築そのものに、作曲上の力点が移行したのだということも明白である。
 I  Christus factus est     「キリストは顕現された」(聖木曜日の典礼式文)          [sop, cl, bass cl]
 II  Dormi Jesu         「イエスよ、お眠り下さい」(『子供の不思議な角笛』より)      [sop, cl]
 III  Crux fidelis         「誠実なる十字架」(聖金曜日の典礼式文)             [sop, cl, bass cl]
 IV  Asperges me        「私の罪を払ってください」(詩篇51                  [sop, bass cl]
 V  Crucem tuam adoramus 「私たちはあなたの十字架を賛美します」(聖金曜日の典礼式文)[sop, cl, bass cl]

3つの伝承詩op.17 (1924-25)
                 sop:太田真紀 vnvla:吉田篤 cl:田渕恵実 bscl:中秀仁 指揮:川島素晴
 前作で「カノン」による無調音楽の対位法的実践を徹底したヴェーベルンは、シェーンベルクとほぼ同時期に、作曲の技術として、「オクターヴの12半音階を、重複無くひと通り使用すること」に対する関心を強めていた。だから、シェーンベルクが、いわゆる「12音技法」を開発したことを、必然的に共鳴し、理解し、自らもそれを用いるようになる。
 この作品『3つの伝承詩』は、ヴェーベルンにおける12音技法の端緒となった作品である。しかしまだ、ここでは、後のヴェーベルンに見られるような「組織的な12音技法」のような用法には至っておらず、「オクターヴの12半音階を、重複無くひと通り使用すること」と、ほぼ同義の技法によっている。とはいえ、これまでの作品に比して、「短い音型単位での構築」という、この後の書法の特徴の片鱗も見て取れる。
 I   Armer Suender, du      汝、哀れなる罪人よ」            [sop, cl, bass cl, vn] 1924
 II  Liebste Jungfrau       「最愛の聖処女よ、我らみな御身のもの」 [sop, cl, bass cl, vn] 1925
 III  Heiland, unsre Missetaten 「救い主よ、われらの過ちが」        [sop, cl, bass cl, vla] 1925

◆弦楽三重奏断章 (1925) ◆弦楽三重奏曲op.20 (1926-27) vn:竹内弦 vla:吉田篤 vc:多井智紀
 ヴェーベルンが12音技法を本格的に導入し、掌中に収めるのは、op.18の『3つの歌曲』である。しかし、続くop.19『混声合唱のための2つの歌曲』にしても、テキストを伴うものであった。ここでヴェーベルンは、大規模な12音技法による器楽作品の実践を試みる。純器楽作品から離れたいたこともあるが、そもそも、大規模な器楽作品というものは(前述の『チェロソナタ』の一件からもお判りなように)書かずに通してきたわけで、この作業は極めて困難なものであった。ひとまず、弦楽三重奏の編成で着手したのが、最初にお聴き頂く『弦楽三重奏断章』であり、これは、生前は公表されなかったものである。この作品を聴いてみると、前の時代の自作品からいかにして脱却するか、という葛藤が窺える。この『断章』は、文字通り続く楽章を書き足さずに放置され、新たな楽章が書かれる。それが現行のop.20『弦楽三重奏曲』の第2楽章である。第1楽章は後に書かれ、第3楽章の構想もあったがこれは未完で放棄された。
 この『弦楽三重奏曲』の12音音列は、(ラ♭---ド♯-ファ♯-ファ--シ♭-ミ♭---シ)となっており、これは、ラ♭-ソ、レ-ド♯、・・・という具合に、半音をなす2音ごとにまとめられる。更に、これを4音ずつに3分割すると、その第2番目のグループ(ファ♯-ファ--シ♭)は、第3番目のグループ(ミ♭---シ)の反行になっている。このような、音列を設定する際に、音列そのものが既に何らかの秩序を持つようなものを選択することは、これ以後のヴェーベルンの最大の特徴となっている。この方法は、構築的である一方で、「12音」に及ぶ音列全体の主題性を、むしろ損ねることになる。つまり、ここでの聴取は、「12音」に及ぶ音のグループではなく、「2音」だったり、「4音」だったりの、より短い音の連なりを聴くことになる。ヴェーベルンは、音型細胞を、より短い単位に凝縮することで、「歌」を極小化したのである。
 無調時代に、全体構造を極小化したヴェーベルンと、12音時代に、主題を極小化したヴェーベルン。前者では、弱音や特殊奏法、複雑なリズムによるもわれた音響を主体とした繊細な表現に満たされていた音楽が、ここにきて後者では、明晰で構築的な時間が展開するようになる。しかしいずれの場合にも、完璧主義的な緻密さと、創作の凝集力がもたらす楽曲の緊張力が、これまでにない世界を現出しているのである。
  <弦楽三重奏断章>    Ruhig fliessend
  <弦楽三重奏曲op.20 I - Sehr Langsam    II - Sehr getragen und ausdrucksvoll

◆「道なき道」による3つの歌曲op.23 (1933-34)               sop:太田真紀 pf:前垣内美帆
 8年間ほどテキストを用いる創作から離れていたヴェーベルンは、ヒルデガルト・ヨーネという女流詩人との出会いによって、再び、テキストを用いた創作への可能性に向かうことになる。しかも、このop.23に加えて、op.25262931と、計5曲もの晩年におけるテキスト作品の全てを、この詩人のテキストによって創作している。とはいえ、既に述べたように、いずれも、宗教的な内容となっている点では、op.15以後の傾向として共通している。
 作曲は第2曲、第3曲、第1曲の順になされており、この時期の創作の変遷を反映している。つまり、第1曲は、他の2曲に比してより一層、整然とした構築が認められる。また、この後の『ピアノのための変奏曲』との、ピアノ書法上の類似も明確である。一方で、第2曲、第3曲については、どちらかというと、『弦楽三重奏曲』の世界に通じるものがある。このように考えてこれらの楽曲を、前後の曲目と聴き比べるのも一興と思う。
 I  Das dunkle Herz         「暗き心」
 II  Es sturzt aus Hohen Friche 「天の高みより清涼さ突如」
 III  Herr Jesus mein        「我が主イエスよ」

◆ピアノのための変奏曲op.27 (1935-36)                                pf:前垣内美帆
 ヴェーベルンは、このピアノ曲の創作に、1年を費やした。筆者は作曲家であるが、私見によれば、この作品の作曲作業に、「作業」という意味で1年が費やされる過程には、この作家の執念を感じざるを得ない。つまり、通常、これだけの音数を操るのに、それだけの作業時間は不要である。しかし、ここで注意したいのは、この作品が作品として提出された結果が、音を積み上げる作業の帰結なのではなく、むしろ削ぎ落とす作業の帰結だった、ということである。この前の上演曲である『3つの歌曲』の項で述べたことを想起して頂きたい。ヴェーベルンは、極限まで楽曲を構成する単位を切り詰めていった。その過程は、『歌曲』の第1曲と、第2・第3曲との変遷の中に見て取れる。そして、その道程の結果が、この『変奏曲』へと至るのである。
 しかしながら、この音楽は、無味乾燥な音の連なりなのではない。初演を行ったピアニスト、ペーター・シュタトレンによれば、ヴェーベルンは、この作品に書き込まれている絶えざるルバートや不意を打つアクセントを含む音楽表現は、言葉を発する行為になぞらえられる、と主張していたという。つまり、ここには、あたかも言葉を発するかのような、豊かな表現が凝縮しているのであり、切り詰められた音楽的素材の全てには、「歌」があるのである。ロマンチックなゆがみではなく、整然と、豊かな表情をもって語られていく「音楽」。1音と1音の連なりの中に、全てが込められ、そしてその、一瞬の表情が、次々に続く中で様々に表情を変えていく。削ぎ落とされたかのようでいて、実はそこには全てが含まれているのである。
 I  Sehr maessig (ソナタ形式)  II  Sehr schnell (短いスケルツォ的楽章)   III  Ruhig fliessend (変奏曲形式)

◆弦楽四重奏曲op.28 (1936-38)            vn:竹内弦、川上裕司 vla:吉田篤 vc:多井智紀
 本日最後の演目であるこの『弦楽四重奏曲』は、『ピアノのための変奏曲』の延長線上にあると同時に、情報量そのものは更に削ぎ落とし、そして形式の面では、より一層対位法的なもの(カノンやフーガ)を取り入れ、その結果、自由な音楽の流れを獲得している。(初演時には第1楽章と第2楽章の順が現行のものとは逆になっていたようで、現行の順は初演後に確定した。このようなフレキシビリティがあり得るという点も、この作品の形式の自由さを示している。)使用音列は、いわゆるバッハの主題(BACH=シ♭---シ)の音程関係(この4音は、2つの半音グループに分割できる)を軸に変奏されている。ここではむしろ、2音のみからなるモチーフが、入れ子のようにかみ合わされ、時を刻んでいく。極限まで凝縮された簡明さが、むしろ、より豊かな表現をもたらすことになるのである。
 この作品の後、ヴェーベルンは、ヨーネの詩による2つの『カンタータ』と、『オーケストラのための変奏曲』を作曲する。『カンタータ』が、20世紀音楽の歴史に燦然と輝く大傑作であることは疑うべくもない。
 そして、1945915日。その傑作に続く『第3カンタータ』が着手されていたにも関わらず、占領軍のアメリカ兵に誤射されて亡くなってしまう。
 ・・・例えば今年の場合。「戦後60年」などという言葉が飛び交い、様々な問題が取りざたされたりもしたわけだが、「ヴェーベルン没後60年」とは、実は、この「戦後60年」と一致する。そしてそれは、偶然の一致でも何でもなく、まさに、ヴェーベルンをして、戦争の悲劇を体現した存在として、我々は記憶してしかるべきなのである。
 I  Maessig   II  Gemaechlich - Bewegt   III  Sehr fliessend