<後半のプログラム>
川島素晴の作品
S+Iのためのエチュード
(2000)
ピアノのためのポリエチュード《ポリポリフォニー》 (2007)
cond.act/konTakt/conte-raste IV (2009 / 初演)
Presto Capriccioso (2004)
==================================<解説>==================================
川島素晴
「演じる音楽」
川島が1994年から実践する作曲の方法論。作曲家は通常、「音」を構築するが、ここでは音楽を「発音行為」の連接と定義して構築する。つまり、何の音が鳴っているかの前に、どのような行為で発音するのか、ということが私にとっての音楽構造の基本なのである。そのような視点に立った上で「全ての瞬間が意味を帯びた充実した時間」を実現しようとすることで、結果的に「演奏行為の共有体験化」がもたらされ、そしてそれはしばしば「笑いの構造」と相似形である。私の作品は、実際に舞台上で展開する演奏行為の全てを全感覚的に体感しつつ、見て・聴いて頂きたい。
◆S+Iのためのエチュード (2000) [演奏] vn, vla,
1/4vn:甲斐史子、instruments:山根明季子
本日上演する中では最も古い作品だが、私のヴァイオリンへの探究的な取り組みは更に遡り、《孤島のヴァイオリン》(1991)では、無人島に漂着したヴァイオリンを、演奏伝統を全く持たない人物が演奏するとどうなるかという試みがなされ、《夢の構造 III》(1994)では、あらゆる奏法を分解的にとらえて伝統との距離を計ることで「演じる音楽」の視点を確立した。この《S+Iのためのエチュード》では、それらの取り組みでも触れていない新たなヴァイオリンの取り扱いに踏み込むべく、本来提げ持って演奏するこの楽器を机上に据え置き、しかもヴァイオリン、ヴィオラ、1/4サイズのヴァイオリンという3つの楽器(Strings=「S」)を並列して各4弦ずつ計12弦(12の音は全て共通音がないよう特殊な調弦が施されている)を持つ新たな楽器のような設定で取り組んだ。一方、「I」とは「Instruments」の略であり、通常の楽器を一切用いないパートである。3つの楽章それぞれにおいて「S(trings)」は全くことなる奏法で12弦を奏で、「I(nstruments)」は各楽章それぞれに全く異なる系統の物品を使用する。
・I 「Fragrance」…「S(trings)」は全て倍音グリッサンド奏法による。(弓をノコギリのように持って縦方向に動かす。)一方の「I(nstruments)」は、プラスチック・パイプ(回転すると倍音が鳴る)を11本使用し、それは「S」の調弦である12の音と、共通する1音とズラされた10音(微分音程を含む)に調整されている。微妙な音程でからむ自然倍音のモワれた効果が、題名の示唆する雰囲気と合致する。
・II 「Greens」…題名は「野菜」であるから「I」は「白菜」を「演奏」する。その他、自然の植物から木材と枯枝が用いられる。それに対し「S」は、それらの植物が奏でる音を様々な特殊奏法によって模倣していく。
・III 「City」…「S」は完全にピツィカートのみで演奏することで、擦弦楽器であるヴァイオリン属ではなくむしろ新たな撥弦楽器として機能する。それに対し「I」は、「下敷」「ゴミ箱」「靴」「段ボール」「座布団」「本」「椀」「ペットボトル」「200ccカップ」「ベルト」「雪平鍋」「皿」という12種類の日用品で対応するが、これら全てに「音程」が指定され、しかも「S」と同様、12音が揃えられている。単体で聴くとその音程は曖昧だが、「S」の音と並行して奏でられることで明瞭にその音程に聴こえる(或いはそう思い込む)はずである。通常我々が音程を伴って聞いていない音に、音程の機能を強制的に与えて「音楽」にしてしまう試み。
余談だが、初演から9年が経過し、当時、自分がどの物品を用いてこの曲を上演したかが不明となったり、紛失したり売却したものもあり、今回の上演のために、特定の音程を伴った日用品を揃えるという、極めて困難な準備が必要となった(初演時は、既に手元に存在する日用品を聴音して配列していた)。当然ながら、これら日用品で音程を調律して販売されているものなど存在しないから、店でしきりに同種の商品を叩いて品定めする挙動不審な客となった。また、昨今の核家族化を想定したスーパーマーケットの事情と、時期(初演は12月)が微妙にズレた関係で、初演当時は丸ごと1個を用いていた白菜も、今回はなかなか入手できず、1/2カットで上演する。
◆ピアノのためのポリエチュード《ポリポリフォニー》 (2007) [演奏] pf:大須賀かおり
《S+Iのためのエチュード》もそうだが、私には「エチュード」と名付けられた作品が多数存在するし、エチュードと名付けられていなくてもエチュード的性質(即ち、ある特定のアイデアでヴィルトゥオジティを探究する)をもった作品を多数書いている。それは、そのような演奏技術の究極的な状況を提示することで、「演じる音楽」の目的である「演奏行為の共有体験化」が比較的容易に実現するからである。しかしながら、ピアノ独奏曲のジャンルは、古来最も「エチュード」の層が厚く、現代作品にも既に名曲が多数存在しており、今更ながらに付言すべきアイデアを見出すのは困難である。そこで私は、あえて「ポリエチュード」という具合に少々ひねった命名をし、ポリフォニックな(というよりはポリ状態、即ち多層的な構造)アイデアを様々に展開する作品集を構想した。2001年の時点で3曲の曲集として構想され、それぞれ《ポリスマン》《トランポリン》《ポリポリフォニー》と、「ポリ」という語を含む単語による題名を伴っていた。当時は2曲のみ実現し、《ポリスマン》(近年この語は死語になりつつあるらしいが)では警笛(ポリス笛)を吹きながらの演奏、《トランポリン》では跳ねる上下動を模した音型が用いられた。これら2曲はその後も多数の再演機会を得ているが、数年を経て2007年に作曲されたのがこの《ポリポリフォニー》である。(なお、《ポリポリフォニー》の基本的構想そのものは、10数年前に遡る。)
《ポリポリフォニー》というのは、「ポリフォニー」が「ポリ」即ち複数同居するという意味の造語であり、まず、2声部から12声部までの11種類の異なるポリフォニー的楽想が提示される。これら11種類のポリフォニー楽想は、声部数が異なるのみならず、それぞれにテンポ、書法、ニュアンス、奏法等が異なっており、およそ次のような内容をもっている。
[3声=中音域コラールと両外声の走句] [12声=12の音によるリズムカノン]
[6声=古典的対位法による5度カノン] [10声=半音モチーフの10層のエコー]
[4声=4層で交差するオクターヴ音型] [7声=低音域の7音がモードで揺動]
[11声=11の高音による異なるテンポ] [5声=12音旋律の長7度カノン]
[8声=異なるパルスで連打される8音] [2声=急速に反進行する黒鍵と白鍵]
[9声=全音域に分布する9つの音素材が反響]
これらは裁断され題名に由来する異化を経てエクリチュールが無化し、果てに「ポリポリによる4声のリズムポリフォニー」に至る。
◆cond.act/konTakt/conte-raste IV (2009 / 初演)
[演奏] cond.actor:川島素晴・山根明季子、ROSCO (vn:甲斐史子、pf:大須賀かおり)
この題名は、英語「cond.act=conductor(指揮者)/ act(動き)」、独語「kontakt(コンタクト)/ Takt(指揮棒)」、仏語「contraste(コントラスト)/ conte(コント)」という具合に、「コン」で始まる3ヶ国語のシャレでできている。そして演技を伴う指揮者のことを、ここでは「cond.actor」と呼んでいる。指揮のアクションというのは、そもそも極めて「音楽的」でありながら、実際には発音を伴わない。その時点で自分にとっては「演じる音楽」の素材として、極めて重要な位置を占める。このようなアイデアによる作品は打楽器とのデュオによる《cond.act/konTakt/conte-raste I》に始まり、ここでは指揮者と演奏者1名の設定で可能な様々なアイデアが実践された。その後、フルート独奏と室内アンサンブル、cond.actorによる作品《フルート協奏曲― cond.act/konTakt/conte-raste II》が続くが、ここではアンサンブルを奪い合う指揮者とソリスト、という設定が用いられた。更に、2007年のソロリサイタルにて《cond.act/konTakt/conte-raste
III》を上演、これは「cond.actor」の無伴奏独奏曲という特異な内容だった。そして今回の《cond.act/konTakt/conte-raste IV》は、ヴァイオリンとピアノ、そしてcond.actor 2名という編成で書かれた。cond.actor が2名というのは初のパターンであり、ここでは演奏者と指揮者の関係、というよりはむしろ、指揮者が2名いるという設定によって考え得る様々な問題についてアプローチすることを中心に据えた。
指揮者が複数存在する設定という点で即座に想起されるのは、3名の指揮者が3つのオーケストラを指揮し、多層的なテンポを駆使するシュトックハウゼンの《グルッペン》(今年の夏に東京でも上演される予定)であろう。また、指揮者が演技を伴っている点については、曲の最後に指揮者が倒れてしまう設定であるカーゲルの《フィナーレ》を思い出す。この作品は、これら近年亡くなった2人の巨匠へのオマージュであると同時に、100歳を超えてもなお現役で作曲を継続しているエリオット・カーターの「リズム転調」の手法(前のテンポと後続するテンポが共有するリズムを持つことでスムーズなテンポ・チェンジが実現する書法)も援用している。
最初のセクションは、ヴァイオリンとcond.actor A によって、4楽章のヴァイオリン協奏曲がとても短く端折られて提示される。続いて、割って入るピアノと
cond.actor B は、ワルツのリズムとその異化を提示。その後展開する部分で、前述の「リズム転調」を実践しているのだが、この書法は聴覚的な鑑賞のみだと体感しにくい難点がある。その点、このように視覚的に示すことで、実際に生じているテンポとリズムの関係性がはっきりと知覚されるであろう。(この作品が全体的に調性的な書法を中心にしている理由は、こういった多層的な構造を最も知覚し易すくるためである。)
次の部分で疲労困憊するcond.actor Aが倒れると、ピアノの音に誘導されて起き上がり、2名の指揮者は左右対称に動き出す。ここでの「ミラー・アクション」による指揮に対し、演奏が同じく鏡像(厳密な反行型)で応じる。音楽が情感溢れる内容になると、cond.actor A はミラーから逸脱し悦に入る。その隙にcond.actor Bは先回りするが、慌ててcond.actor A は追随する。
ond.actor B はどうにかしてcond.actor A を封じようと、とある作戦に出る。その結果、2人は背中合わせで回転する状態となり、それぞれが示す2つのテンポの間で、2人の演奏家は演奏する楽曲のテンポが速くなったり遅くなったりする。(なお、この部分でヴァイオリンとピアノがそれぞれに演奏する2つの楽曲は、自分が子供をあやす際に歌っていた鼻歌が元になっている。)
最後のセクションは、2人のcond.actor
がそれぞれに示す5つずつの楽想がコンバインされて徐々にリズミックな音楽に変化していく過程で、指示を出すはずの指揮者が音に反応するだけの存在になっていき、2人は合体して1つの器械人形のような状態に変貌する。
◆Presto Capriccioso (2004) [演奏] ROSCO (vn:甲斐史子、pf:大須賀かおり)
この作品の題名は、初演者であるデュオ・カプリッチョに由来し、ドイツで活躍するヴァイオリニスト・木場倶子とピアニスト・菅原幸子によるこのデュオの来日(帰国?)公演をプロデュースした際に作曲された。菅原氏は今年の5月に東京オペラシティにおけるラッヘンマン特集でも作曲者夫人として再来日し、ラッヘンマンの名作《Allegro Sostenuto》を上演するわけだが、この名作の題名が、速度標語「Allegro」と一見相反するかのような発想標語「Sostenuto」を伴っていることが、《Presto Capriccioso》という題名とも関係している。
できるだけ速く演奏する、という設定によって、演奏の行為性が浮き彫りになることについては別項で既に述べたが、「Presto」と銘打たれたこの作品でも基本的にそのような姿勢で一貫している。しかし、できるだけ速く弾く、ということを実践するとき、そのスピードは実際には音型によってまちまちである。例えば、順次進行と激しい跳躍音型では、全く演奏可能な速度が異なるであろうし、更に、それをどのようなニュアンスや強弱で演奏すべきかによって、可能なスピードは変化する。この作品では、テンポは基本的に一貫しているが、音型の種類によって連符の種類が異なっている。
冒頭、トレモロを2人同時に演奏し、それをきっかけに、まずヴァイオリンが10種類の音型を提示する。続いて2人がグリッサンド・トレモロで下行すると、今度はピアノが10種類の音型を提示する。それぞれの示す10種類ずつの音型は各楽器の特質を活かした内容になっており、そのこと象徴するように、ヴァイオリンはパガニーニのカプリース第1番、ピアノはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章、という具合に、それぞれ、有名な楽曲の引用からスタートする。これら22の音型はループしていくが、その過程で徐々に短くなっていくと同時に、2つの楽器がだんだんと同期していく。本来、それぞれの音型は各楽器の特質を活かした内容だから、全ての音型は同期して演奏するのは困難なはずであるが、音型が短くなることとパラレルに同期率が高くなっていくことによって、かろうじて演奏可能な内容を保っている。ソロとしてのヴォルトゥオーゾから、デュオとしてのヴィルトゥオーゾにシフトしていくわけである。
最後には、一瞬で音型をチェンジしていく状態となるが、この状態は、この音楽が「演奏行為の連接」であることを最も体感し易いはず。2人のエキサイティングな演奏姿を、とくとご覧あれ。
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